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＊
変な感じだ。
阿部さんなのに、阿部さんじゃないみたい。
一方的に私のことを知っている人から親しげに呼ばれた時のような、不慣れで、ゾワゾワと全身の毛が逆立つみたいな、この違和感がくすぐったい。
それもこれも、
「ねえ、Aさん」
阿部さんが私のことをしれっと名前で呼んでいるからだ。
こちらとしては、ぼーっとしていた所に思いっきり水をぶっ掛けられたような衝撃である。
そもそも、阿部さんが私を名前で呼んだことなんて今までなかったはず。
多分…ううん、絶対に。
呆けていた最中でも、彼の声を耳ざとく聞き逃さなかった己のに拍手を送りたい。
こちらが返事をし損ねた間に二回も名前を呼ばれたのだ。
聞き間違いなんかじゃない。
ざわつき始めた心をなだめながら、私は身動ぐことも振り返ることもせず、背後に意識を向けた。
頭の中は軽くパニック。
だけどしっかりと頬には熱が集まっていく。
ドクドクどころか、ドカドカと派手に暴れ回る心臓の音が大きすぎて、阿部さんにまで届いてしまいそうだ。
彼の声は私の存在を確かめるように輪郭をなぞり、柔らかく、わずかに熱がこもっていた。
──Aさん
質量のある言葉を思い出せば、足元から得体の知れない感覚が沸き立ち、ぞくり背中が毛羽立った。
たまらず細く、息を吐く。
阿部さんが私のことを名前で呼んだことはない。
ないはずなのに、前にもこんなことがあったような、妙な聞き馴染み感と急な懐かしさが込み上げた。
あれは確か…──
寝室、月明かり、右手を包む自分以外に体温。
酷く霞んだ視界の中で微笑んだ人が静かに呟いて、それから何かが頬に押し付けられる。
映画のワンシーンのような断片的で朧げな何かが浮かび上がり、それを手繰り寄せる間もなく記憶の波が攫っていく。
思い出せ。
年始に風邪をひいた。
私の部屋の寝室、カーテンを閉め忘れた窓越しにくっきりと浮かぶ月明かり、右手をぎゅっと握りしめてくれたのは──そうだ、阿部さんだ。
酷く霞んだ視界。
眠りに落ちる瞬間、阿部さんが微笑んでいたのだけは覚えている。
私はそれしか知らないはずだった。
あの時ももしかして、私は阿部さんに名前を呼ばれた？
思い出せない。
妄想と現実の境界が曖昧にぼやけて分からなくなる。
固まったまま、私は動けなくなった。
少しの静寂のあと、服が擦れる音と、彼がこちらへ近づいてくる足音が聞こえる。
阿部さんの気配をすぐ後ろに感じると、思わず息を止めた。
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作者名：泥濘 | 作成日時：2024年4月16日 12時
